11月5日  中泊町に「宮越家の大正ロマンおほる離れ」
のステンドグラスを見に行った
青森から車で1時間20分、町役場へ
今年から初めて公開されて、予約して3か所から
シャトルバスで往復込み1000円でした
町役場やボランティアの方々がとても親切でした
今まで外国でもかなりのステンドグラスを見てきましたが
日本的で素敵でした

母屋にはまだ、宮越家の方が
住んでて米問屋、肥料、農薬をして
いるそうです

ここにこのような建物、庭、調度品
ステンドグラスがあるなんて、その頃
よほど栄えて裕福な旧家だったでしょう

百年前のステンドグラスの傑作が残る青森県中泊町の宮越家で、
膨大な資料の整理、解読作業が進んでいる。リスト化を終えた文献は約6500点
竹下夢二からのはがき等が見つかった

 町と宮越家は、入念な保存・管理計画のもと、来春からの公開の準備を進めている

 「宮越ワールド」の中心は、3点のステンドグラスだ。
 中泊町尾別、米穀集荷業宮越寛さん(61)
 の曽祖父で宮越家第9代当主の正治さん(1885~1938)が1920(大正9)年、
 敷地内に床面積約229平方メートルの離れ「詩夢庵(しむあん)」を建てた際、
 当時気鋭のステンドグラス作家だった小川三知(さんち)に制作を依頼した

涼み座敷の4枚のガラス障子には、コブシとアジサイを配し、
庭の借景との調和を醸し出した
廊下の円窓には、帆掛け船が浮かんで十三湖を思わせる風景、
風呂場には、カワヤナギで羽を休めるカワセミが描かれている
2004年、小川三知の日記から宮越家の作品にたどり着いた
ステンドグラス史研究家の田辺千代さんは
「小川三知の最高傑作が百年もの間、オリジナルのまま無傷で残っていた
国宝級です」と高く評価している。

町は昨年、「宮越家住宅・資料保存活用検討委員会」を作り、離れをはじめ、
北側に隣接する文庫蔵、建物を取り巻く庭園などについて調査と資料整理を重ねている
文庫蔵には段ボール箱7個の書簡や、茶道具陶磁器がまだあるそうだ

九代・宮越正治>

明治18年(1885)要三郎の三男に生まれました。
明治37年18歳の時、栄村湊(現五所川原市)の
名門平山為之助実妹イハ15歳を娶るとともに、
このころ東京牛込に居住していた奥田抱生に師事しました。
後に「機山」と号し、書画・漢文・骨董はもとより、
建築から庭園に至るまで如何なく発揮された正治の審美眼は、
抱生の下で開眼したと思われます。夫人のイハもまた
旧制弘前高等学校教授の彌富破摩雄に短歌を学び、
「麗子」の雅号を拝領した一流の歌人です

 

大正7年(1918)兄二人の早逝により家督を相続した正治は、
地主として農林業経営にあたるとともに、銀行や百貨店、
酒造・鉄道・電燈など新たな成長分野に投資し、家業拡大に取り組みました。

 

また、実業の傍ら、全国の文化人らと交流を図っていた様子が、
大量に残された書簡類から明らかとなっています
横山大観・下村観山・木村武山・寺崎廣業・小川芋銭など日本美術院に関わる画家
橋本関雪・菊池契月・上村松園・木島櫻谷・小坂芝田・池田桂仙など京都画壇の四条派
南画グループ、鏑木清方・松岡映丘・結城素明・平福百穂といった美術団体「金鈴社」会員など
近代日本画を牽引した人々、また尾崎紅葉・幸田露伴・与謝野寛(鉄幹)といった
明治文学を代表する文士らとも文通し、作品や揮毫を入手していました。

 

3ヶ所の窓の装飾は、ステンドグラス作家小川三知に依頼しました
三知は、橋本雅邦に学んだ日本画の素養と
アメリカ留学で身に付けた高度なガラス技法を武器に、
わが国のステンドグラスの基礎を築いた人物です
宮越家の3点のステンドグラスは、当時のデザイン潮流を意識しながらも
「和」の意匠を巧みに織込み、技巧的なガラス技術の粋が盛込まれていることも相まって
三知の最高傑作と評価されています。

 

 

 

 竹久夢二からのはがきは、「注文の絵ができましたのでお送りしました。
ご確認ください。代金は為替で送ってください」という内容で
、大正8年7月23日付。夢二からのはがきはこの一通だけで、
依頼したと思われる絵は見つかっていない。

敷地内にはこのほか、母屋からつながる庭園がある
こちらは明治期のもので、正治さんの先代の時代に造られた
津軽地方に伝わる「大石武学流」の初期の作とみられる

離れや文庫蔵には、このほか江戸自時代前期のものと思われるふすま絵や、
欄間の彫刻、旧華族が放出したとみられる茶器類なども多数あり、
寛さんは「正治の頭の中にあったもの、イメージを具現化した世界になっているようだ
子供たちが、この町には良いものがある、と自信を持ってもらえるよう、
公開することにした」と話す。

 

町役場の隣の博物館に
竹下夢二からのはがき、
横山大観、上村松園、尾崎紅葉、幸田露伴の書簡が
展示されてました
私の知ってる文化人たちとの交流もたくさんあっ
て驚きました
町の人々が作ったステンドガラスも飾られてました

 

町は昨年、「宮越家住宅・資料保存活用検討委員会」を作り、離れをはじめ、
北側に隣接する文庫蔵、建物を取り巻く庭園などについて調査と資料整理を重ねていて
文庫蔵には段ボール箱7個の書簡や、茶道具陶磁器がまだあるそうです
庭も町で整備して、来年からは、年三回公開するとか?

ここは、太宰治の斜陽館や十三湖も近いから、これから観光地となることでしょう!

メモ
正治は「詩夢庵」とセットとなる庭園造りにも精力を注ぎました
宮越家には先代要三郎の時代、大石武学流宗家2代高橋亭山(米五郎)が
手掛けたと思われる庭園がすでにありました。
正治が新たに構想した庭は、敷き詰めた黒玉石を水の流れに見立てた枯山水庭園と、
湧水を満たした池を中心とする池泉庭園とが一体となった類例のないものでした。
これらの庭園は、「尾別」のアイヌ語解釈「静かに川の流れるところ」から
「静川園」と命名されました

欄間は大きな一枚の板から?木から?掘ったそうです
↓座敷から写した庭

メモ
外光が抑制された薄暗がりの中に、古来多くの物資や人が行き交った「十三潟」の景観を
モチーフとしたステンドグラス作品が浮かび上がります。小川三知が得意とする
白砂青松、裏側にティファニー様式とよばれるガラスを重ねる高度な技法が用いられています
光が透過すると十三潟の水面にさざ波が寄せる。日光の当たる時間で変化するそうです

庭から見た

大正9年(1920)宮越家9代当主正治が、イハ夫人33歳の誕生祝と厄除けを兼ねて
建立したと伝えられます。大正浪漫あふれる空間は、
夫妻が詩歌を詠む舞台として「詩夢庵」と命名されました。
棟梁をはじめ、建設に携わった人々の名前は明らかとなっていませんが
天井や壁、縁側や床の間には銘木や高級建材が惜しげもなく投入され、
丁寧な仕上げが施されています。

また、建具についても、襖絵は狩野山楽・岩佐又兵衛・狩野常信といった
安土桃山から江戸前期に活躍した絵師の作と伝えられるほか
窓は小川三知作のステンドグラス、欄間は能面師後藤良の彫刻で飾られました
調度も贅が凝らされ、正治夫妻の審美眼に適った家具や文房具・茶道具ほか
近世から近代の書画が邸内を彩っていました

障子4枚組に花木によって早春・初夏・初秋、余白を初冬に見立てて季節の
移ろいを表すとともに、背面の庭木を借景としています。早春の訪れを真珠色で表現したモクレン
を挟んで、左に青・緑・黄色のアジサイ、右に抑えた朱色のケヤキ色づきます

庭から見た

風呂のステンドグラスは
消防法などの問題があるとか?
未公開でした
庭からちょっと見えました